Kevin Carter

Starving Child Vulture

ケビン・カーター
 (1960年9月13日 - 1994年7月27日)南アフリカ共和国の報道写真家。

1994年、ハゲワシが餓死寸前の少女を狙っている『ハゲワシと少女』という写真でピューリッツァー賞を受賞。写真はスーダンの飢餓を訴えたものだったが、1993年3月26日付のニューヨーク・タイムズに掲載されると同紙には絶賛と共に多くの批判が寄せられた。そのほとんどは「なぜ少女を助けなかったのか」というものであり、やがてタイム誌などを中心に「報道か人命か」というメディアの姿勢を問う論争に発展した。

 授賞式から約1ヶ月後、カーターはヨハネスブルグ郊外に停めた車の中に排気ガスを引きこみ自殺。彼は薬物依存症であっただけでなく、20代の頃に躁鬱病を患っており二度も自殺未遂を起こすなど精神的に不安定な側面があった。また、死の数年前から衝撃的な写真を撮ることと、そうした写真ばかりが喜ばれることに疑問を抱いていた。

 1983年から続く内戦と干ばつのためにスーダンでは子供たちを中心に深刻な飢餓が起こっていた。しかし、スーダン政府は取材を締め出し国外に伝わらないようにしていた。そんな中カーターは、内戦の状況を伝えようとスーダンに潜入した。

 カーターが訪れた国連などの食料配給センタ-があるアヨドという村では、飢えや伝染病で1日に10人から15人の子供たちが死んでゆく有様だった。やりきれなさから、その村から離れようとして村を出たところで、ハゲワシが うずくまった少女を狙うという場面に遭遇したのである。現場にいたカーターの友人でありフォトジャーナリストのジョアォン・シルバの証言などによると、写真の構図は母親が食糧を手に入れようと子どもを地面に置いた短い時間にできたものであったという。カーターは写真を撮った後、ハゲワシを追い払い、少女は立ち上がり、国連の食糧配給センタ-の方へよろよろと歩きだした。それを見た後は、すさんだ気持ちになり木陰まで行って泣き始め、タバコをふかし、しばらく泣き続けたと手記に記している。

wikipedia




dcroni

いずれにしろ悲しい。




Volacide

この写真、自分が生まれた日に撮影されたものなんだ。

鳥肌立ったよ。




chean
カーター・・・。
彼は天才的な写真家だった。
良い経歴の持ち主だし、偉大な人でもあった。
未だに許せないとか拘ってるヤツなんてクソ喰らえだよ。



kaitmoe
週末の楽しい気分が台無しになったわ。



MississippiQueen
コレについては、皆が承知の事実だと思っていたんだが。



sjlowy
見てて寒気がする写真だよね。
悲惨な様な写真は結構平気な方だけど、これにはちょっと悲しくなってしまった。



The_Decoy
でもこの写真を見る大概の人々にとっては、写真家は彼女に対して何も手を差し伸べなかった様に見えてしまうよな。その事が写真の状況の悲惨さのみならず、感情の高ぶりを増加する・・・。



iGotChubs4You
社会はジャーナリズムの力と必要性を過小評価しすぎ。
彼は「必要性」に駆られて撮影したんだ。
メディアとジャーナリズムを通じて生々しい現実を伝える事によって、問題意識を広めようとしたんだ。これはとても重要な事だ。



furman87
興味深く重要な事柄だが、正直陰鬱になってしまった・・・。



anthropomorphist
もともと鬱病を抱えてたんでしょ。
危ない人って、自分からドツボにハマって行くものだからなあ。



stupernan
彼の魂に祝福を・・・。
批判されるに値するような事じゃなかった。



junglepriest
どうせ批判してた連中なんて、スーダンに寄付もしなけりゃ助けようと現地へ向かった事なんか無い人達だろう。



1RAOKADAY
映画化されてんのな。
彼はタイトルにもなってるバンバン・クラブの一員だった。
悲しいけど良い映画だったよ。

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>>1RAOKADAY
99Faces
NickGSBC
観たよ。
面白かった。



jacobo
ちなみにあの有名な写真の直後に撮られた写真。


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あの子は死んではいなかった。
撮影したのはLuis Davillaって人。



>>jacobo
PatrickMorris
写真撮らない人って、望遠レンズが背景と前傾の距離を圧縮する事を知らないからな。鳥は子供に対してそんなに近くにいなかったし、多分、あの子の事は目にも入っていなかったと思う。



>>PatrickMorris
Sickivionkey
だからって「良い写真だ」とは言えねえ。



Kvothe24
spazzm
投稿ありがとう。




TIL the photographer of the Pulitzer Prize winning photo depicting a vulture waiting for a starving child to die, committed suicide due to guilt, persecution and depression.




撮影に同行した友人の証言
  カーターさんは、ピュリッツァー賞受賞決定から3ヶ月後、受賞式から1ヶ月たった94年7月27日、ヨハネスブルグ郊外で自分の車のなかで遺体となって発見された。当時のメディアは、「地元の警察では自殺とみているが、自殺の原因は不明。遺書には『ハゲワシと少女』の写真のことは書いていない。したがって、この写真とピュリッツァー賞受賞とに関係があるのかどうかはわからない。」と報道していた。

 ただ、カーターさんの父親は、葬儀の日、日本の小学生から送られた手紙の中に飢餓の惨状を教えてくれたカーターさんに感謝する気持ちが綴られていたのを知って、「死ぬ前にこの手紙を読んでいたら息子は自殺しなかったかもしれない」と語ったという。

 「ハゲワシと少女」の写真が本当のところどのような状況の下で撮影されたのか知りたかったのだが、本人の告白以外これまで明らかになっていなかった。私もこの写真を最初に見たとき、一瞬、「やらせでは」と思ったほど、うまく出来すぎていた。だいぶ経ってから、「カメラマンは少女の母親の目の前であの写真を撮ったらしい。」といううわさがどこからともなく伝わってきた。「母親の目の前で」となれば、カメラマンが「少女を助ける必要もない」わけだが、それにしてもハゲワシが置物でない限りどうしてあのような状況が撮影出来るのだろうかと疑問に思っていた。

 同じような疑問を持った毎日新聞の藤原章生記者(元アフリカ特派員)は、現地で取材した結果を「あるカメラマンの死」のなかで紹介している。

 藤原記者は、アフリカに赴任して2年目の1997年、カーターさんの友人で同じカメラマンのジョアオ・シルバさんにインタビューすることが出来た。ジョアオ・シルバさんはカーターさんをスーダンに連れて行った人でもあった、という。「あるカメラマンの死」はジョアオ・シルバさんの話が中心になっている。

 当時のスーダンは1988年の大旱魃で畑や家畜が壊滅状態になり、餓死者が25万にもなったため、国連とNGOが共同でスーダン生命線作戦=オペレーション・ライフライン・スーダン=という名の緊急食糧援助を空輸で行っていた。

 ジョアオ・シルバさんは、仕事がなく「生活が完全に破綻していた」カーターさんを誘って国連機に乗り込み、現地到着後離陸まで30分という制限時間のなかで、ジョアオ・シルバさんはゲリラ兵に、カーターさんは飢餓にレンズの目を向け、絵になるものを探して必死に走り回ったという。

 ジョアオ・シルバさんは「ケビンがあの写真を撮ったとき、数百メートルのところにいた。」「ケビンはそのとき飛行機近く、数十メートルのところにずっといたみたいだ。」と話している。

 ジョアオ・シルバさんも似たような少女の写真を撮ったが、そのときの様子について「親はすぐそばで食糧もらうのにもう必死だよ。だから手がふさがってるから、子どもをほんのちょっと、ポン、ポンとそこに置いて。」「ケビンが撮った子も同じ。母親がそばにいて、ポンと地面に子どもを置いたんだ。そのとき、たまたま、神様がケビンに微笑んだんだ。撮っていたら、その子の後ろにハゲワシがすーっと降りてきたんだ。あいつの目の前に。(略)あいつ、『アイヴ、ガッタイトゥ(撮った)、やったんだ、撮ったんだ、すごいの撮った、俺、撮ったんだ』なんて涙流さんばかりに興奮して」いたという。2人はナイロビに戻り、写真を焼いて、ジョアオ・シルバさんが『ニューヨーク・タイムズ』の知り合いに売り込んだのだと話している。

 藤原記者の「あるカメラマンの死」には、カーターさんは「愛用の薬物、マンドラクスを吸いながら、車内に排ガスを引き込み自殺した」と書いてあり、遺書の最後に「すべて手に入れたのに、結局、自分自身であり続けることがすべてを台無しにしてしまった」と結んでいることを紹介している。

 カーターさんは「ハゲワシと少女」を撮る以前に「俺はただ、自分の写真が紙面に載ればいい、それだけだ。」と地方紙の写真コラム(89・8)に書いたことが藤原さんの「あるカメラマンの死」に出ている。これを読むと、戦場で衝撃的な写真を狙ったり、例えばダイアナ妃を狙ったりするパパラッチのようにみえなくもない。その人が薬物を愛用していて、自らを死に追い込んだことになる。

 世界の飢餓人口は増え続け、9億6300万人に達する勢いだという。内戦による飢餓と貧困。旱魃による恒常的な穀物不足。人口増に対する政治の無策。子どもたちの親の責任。これらすべてについて国際的な支援を求めているのはスーダン1国だけでない。その意味で、カーターさんの友人の話は話として知った上でなお、カーターさんが残した1枚の写真「ハゲワシと少女」の重みは何にも増して貴重なものであり、その役割はいまでも変わらないと考える。

 2年前、「全国中学生人権作文コンテスト東京都大会」で東京新聞賞を受賞した作品に「『ハゲワシと少女』から学んだこと」(江戸川区立二之江中学校3年 水野谷古都さん)があった。作文の題は「紛争の怖さを知る努力続けたい」で、他の受賞作とともに東京新聞(2006.12.16)に載った。当時中学生の作者は結論を次のように結んでいる。

「『私に救うことはできないから何もしない、何も考えない』では、やはり嫌だと思いました。内戦や飢餓などで苦しむ世界の子供達の為の活動があると聞いて、インターネットで捜してみました。それは、内戦などのさまざまな紛争や、貧困、飢餓に苦しむ子供達を支え、その子供達の教育環境や、地域開発を共に支えていこうという国際NGOでした。今その資料を取り寄せているところです。内戦をとめる力はないけれど、こういう国や子供達がいて、私はそのことを知っている、という意識を持って暮らしたいからです。カーターの残した写真は、私達に『知る努力をやめてはいけない。考えることをやめてはいけない』と教えてくれているのだと思います。」

 ここには、人命か報道かといった二項を対立させて議論する大人たちを超えた未来があると感心した。

再考「ハゲワシと少女」の写真